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人の出会いは結び、時間も結び

  • HIROSHI MACHIDA
  • 2017年1月25日
  • 読了時間: 3分

時間は直線的

 MOViX八尾に来ました、アリオの4F。

 普段はこういうところで映画を観る機会があまりなく、いつもは十三のシアターセブンまで出向いて映画を観ているんですが、今回はお目当ての映画がコチラでやってるとのことなんで。

 で、お目当ては「君の名は。」

 今回は2回目のリピーターです。

 映画に関係あるんか、無いんか、時間についてちょっとヒントももらったんで、書いてみる。

 映画はふつうにおもしろいです、今日は映画中に3回は泣いた(´;ω;`)ウッ…

 年とると涙もろくなるんです。

 さてさて、時間って不思議って思わん?

 過去、現在、未来とあって、今は現在。

 あるはずの過去と未来は実は自由に行き来できないんですね。

 つまりは過去も未来も概念であって、実は幻想なんかなと。

 あるっちゃあるし、ないっちゃないしで。

 じゃあ、あるのは何か、それは常に今。

 常に今が連続してる。

 永遠の今。

 この瞬間。

 時間ってリニアに考えるやん、ふつう。

 直線的でさ、過去から未来へ、あるいは未来から過去へ。

 でもなんか昔からそれに違和感を感じてたんよね。

 例えばひとつの映画を作るのに、映画に必要とされる可能性のあるシーンやカットを何百、何千時間撮ったりするやん。

 で、最終的に120分くらいの映画にする為に、監督なりスタッフが編集して完成するやん。

 そして、動いて見えるあらゆるシーンは一コマ一コマ別々で、それらが高速で連続するから動いてるように見えるだけで。

 それを時間に当てはめてみて考えてみる。

 人生に可能性のあるシーンやカットが無数にあるの。とにかく可能性に満ち溢れていて。

 で、編集する監督は自分自身で、どれを人生に採用するかは自由、混乱しないように脳が機能として一コマ一コマを連続させている。

 だから、直線的に動いてるように見えるだけで、じつは編集前のフィルムのごとく、この一瞬にすべての可能性が存在してるとか。

 つまりはリニアではなく、むしろ平面的、あるいは立体的に存在しているのかも。

 あたかも、撮り切った無数のフィルムが映画監督の机の上に積み上げられているように。

 そこには原因も結果も、一瞬に同時存在している。

 こういうのを、「因果俱時」って言ったりするよね。

 というように常々思ってたときに、映画を観て、さらに思ったのは、

 「結び」よね~、「縁」だよねって思ったん。

 人生とは関係なく、時間の流れってのがあって、その上に乗っかってるイメージでふつうは時間を直線的に考える。

 極論、自分がおってもおらんでも、関係なく世界は動いてると。

 しかし、時間はあくまで解釈の仕方の話で、概念だと。

 どちらかというと、先ず結びがある。

 行いや行動がある。

 それが縁を結ぶ。

 縁が結ばれると、さらに縁が縁を呼び、次の縁が結ばれる。

 その連続が時間として捉えられるんだと。

 縁を結ぶ限り、時間は連続するんだと。

 肉体があろうがなかろうが。

 それらがあらゆるモノやコトに当てはめられる。

 人との出会いもそう。

 生まれた環境、他人との違い、日々の出来事、事件や事故・・・

 だから縁が結ばれた結果の自分として考えると、もうこれは自分自身の問題でなく、全体の、世界全体の、宇宙全体の話になってくる。

 自分ひとり欠けると、結ばれた縁の無数の帰結先である自分が欠けると、それはもう全体が成り立たなくなってしまうんじゃないのかと。

 この一瞬が欠けると、過去も未来も存在しなくなるんだと。

 因が縁を作り、果としての報いを受ける。

 縁を作り続けては、受け続ける。

 まさに「縁起」というわけ。

 いわゆる空ですね。

 映画は観て損はないと思います。

 おばあちゃんの話しを、心して聞くべし!

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